224 朝

 

 そう、今日ぼくは犬の夢をみた。
 犬は岩をぺろぺろ舐め、それから川の方へ走っていって、水を眺めだした。
 彼女はそこで何かを見たのだろうか?
 何故彼女は水を眺めたのだろうか?
 ぼくは紙煙草を吸った。もうあと二本しか残っていない。
 これを吸ってしまったら、その先はもうないのだ。
 金もない。
 今日はどこで昼飯を食おうかなあ?
 朝は茶を飲むことが出来る。砂糖があるし、菓子パンもある。しかし煙草はもうない。昼飯を食う場所もない。
 もうすぐ起きなくてはならない。もう二時半だ。
 ぼくは二本目の煙草を吸い、今日どうやって昼の飯を食おうかと考えはじめた。
 フォーマは七時に印刷所で昼飯を食べる。もしきっかり七時に印刷所にトーチャクすれば、あそこで彼に会えるから、こう言おう。『なあ、フォーマ・アントーヌイチ、今日昼飯をおごってほしいんだけどなあ。今日金を受け取るはずだったんだが、銀行に金が入ってないんだ。』博士から10ルーブリ札を借りてもいいな。しかしどういたしまして、博士は言うだろう。『どうぞどうぞ、それはお貸ししなければ。おとりなさい。しかし今10ルーブリはないな。3ルーブリしかお渡しできませんよ』。違うな、博士はこう言うだろう。『私には今一銭もないんだ』。違うな、博士が言うのはそうじゃなく、こうだ。『ほら1ルーブリ。これ以上は何にもあげないよ。マッチでもお買いになるんですな』。
ぼくは煙草を吸いきって、服を着始めた。
 
 ヴァロージャが電話してきた。タチアナ・アレクサンドロヴナがぼくの事を、どこからが天分でどこからが馬鹿なのか、どうしても理解できないと言っていたそうだ。ぼくは長靴をはいた。右の長靴から靴底が落ちた。
 今日は日曜日である。 
 リテイヌィ大通りの、本屋街のそばを通り過ぎる。昨日ぼくは奇跡を乞うた。そうだ、そう、もし今奇跡が起こったならば。
 半雪半雨が降りはじめる。ぼくは本屋のところで立ち止まって、ショウウィンドウを眺めた。本の名前を十も読んでいくが、そのそばから忘れてしまう。
 ポケットのタバコに手を伸ばすが、もうなくなったことを思い出した。
 ぼくはいかつい顔をして、ステッキをカッツカッツいわせ、ネフスキー通りの方へ足早に歩く。
 ネフスキーの角の家は、ムカムカするような黄色に塗られている。道を引き返さねばならぬ。向こうから来る通行人がぼくを押しのける。彼らは皆、ちょっと前に田舎から出てきたばかりで、まだ道の歩き方を知らないのだ。彼らの汚い服と顔は、分けて見るのがおよそ難しい。
 彼らはあらゆるところに踏み込んできて、唸り声を上げながら押しのけあう。
 お互い同士押し合いへしあい、「すみません」とも言わないで、汚い言葉で叫びあうのだ。
 ネフスキーの歩道は恐ろしく混雑していた。道路のほうはかなり静かだ。まれにトラックか汚い軽自動車が通りすぎる。
 満員の市電が通る。昇降ステップにも人が鈴なり。市電には罵り言葉がつきものである。誰もがお互いにタメ口で話している。扉が開くと、車両から出入り口に生ぬるい、臭い空気が吹きつける。人々は走っている市電に飛び乗ったり、飛び降りたり。けれどそんな事まだ出来やしないから、つんのめって尻餅をついたりする。しばしば転げ落ちては、唸り声や罵り言葉と共に、市電の車輪の下に飛びこんでゆく。警官たちが笛を吹いて車両を止め、走行中に飛び乗った者から罰金を取る。しかし市電が走り出すとすぐに、新しい人々が左手で手すりをつかまえ、走行中に飛び乗ってくるのだ。
 
 今日ぼくは昼の二時に目が覚めた。起き上がる力がなくて、三時まで寝床で横になっていた。ぼくは自分の夢について考えていた。何故犬は川を眺めていたのだろうか、そこで何を見たのだろうか。夢を最後まで考えること。これはとても大切なことだと、ぼくは自分に言い聞かせた。けれど、その先夢で何を見たのか思い出せなくて、ほかの事を考えはじめた。

 昨日の夜、ぼくはテーブルの前に座り、煙草を吸いまくっていた。何かを書くための紙が、ぼくの前においてある。しかしぼくには、何を書かなくてはならないのか、わからない。それが詩であるべきか、物語なのか、または解説なのかという事さえ、わからなかったのである。ぼくは何も書かずに横になった。けれど長いこと眠りにつかなかった。何を書くべきなのかがわかれば、と思う。頭の中で言語芸術の種類を数えてみたが、自分の種は見つからなかった。それは一言でいいのかもしれないし、もしかしたら、丸々一冊の本を書かなくてはならなかったのかもしれない。何を書いたらいいのかわかりますようにと、ぼくは神に奇跡を乞うた。しかし煙草が吸いたくなってきてしまった。ぼくに残ったのは、全部で四本の紙煙草。朝までに二本、いや、三本は残しておくのがいいだろう。
 ベッドに座って煙草をふかし始めた。
 ぼくは神に何らかの奇跡を乞うた。
 そうそう、奇跡が要るのだ。どんな奇跡でもかまわない。
 ランプに火を点し、周囲を見まわしてみた。すべてがもとのままである。
 そう、ぼくの部屋の中では何ひとつ変わるはずもなかった。
 変わらねばならないのは、ぼくの中の何かだ。
 ぼくは時計を見た。三時七分。つまり、最低でも十一時半まで寝てなくてはならなくなったということだ。早く眠らないと!
 ぼくはランプを消して横になった。
 いや、左脇を下にして寝なければ。
 ぼくは左脇を下にして横になり、眠りはじめた。
 ぼくは窓を眺め、掃除夫が通りを掃いているのを見ている。
 ぼくは掃除夫の横に立って、何かを書き始める前には、書くべき言葉を知っているべきなんだよと、彼に言っている。
 ぼくの足のうえを、のみがピョンピョン跳ねている。
 目を閉じ、顔を枕にうずめて、眠ろうと努める。しかし、蚤が跳ねているのが聞こえるので、その音を追いかけてしまう。もしピクリとでも動こうものなら、夢を見失ってしまうのに。
 手を持ち上げて、指で額を触ってみなければならなくなった。ぼくは手を上げて、額を指でさわる。
 すると、夢は行ってしまった。
 右脇のほうへ寝返りを打ちたくなるが、ぼくは左脇を下に寝なくてはならないのだ。
 今度は、蚤が背中のほうにいる。今度こそ噛まれてしまうだろう。 
 ぼくは言う。「おお、おお。」
 つぶったままの目でぼくは、蚤がシーツの上を跳ねていって、押入れへ到着し、そこで犬のように従順に座っているのを見た。
 ぼくは自分の部屋全体を、横でもなく、上でもなく、すぐさま全体を、いっぺんに見ている。すべての物体がオレニジ色だ。
 眠れない。何も考えないように努める。そんなこと不可能だと思い出し、思考を押さえつけないように努める。何でも好きな事を考えるがいい。そうしてぼくは巨大なスプーンのことを考えた。キセーリ(シェークのようなもの)の夢を見ているのに、夢にスプーンを持ってくるのを忘れたとかいう、タタールの寓話を思い出す。それからスプーンを見たのだが、しかし忘れた・・・忘れた・・・忘れた・・・。これは、何について考えていたのかを忘れたのだ。もう寝てるんじゃないのか、おれは?ぼくは試しに目を開けてみた。
 さて目が覚めてしまった。もう眠りに落ちて、何がそんなにも必要だったのか忘れていたというのに、なんと残念なことを。また眠ろうと努めなければなるまい。どれほどの努力が無駄に消えたのだろう。ぼくはあくびをした。
 眠るのが面倒くさくなってきた。
 ぼくは目の前のストーブを見る。暗闇でストーブは暗緑色に見える。ぼくは目を閉じる。しかしストーブを見ることも続ける。ストーブは完全に暗緑色だ。そして部屋の中のすべてのものが暗緑色だ。目は閉じられているが、しかしぼくは目を開けないで瞬きする。
 「人は閉じた目でも瞬きをするんだよな」とぼくは思う。「ただ眠っている人だけが瞬きをしないんだ。」
 ぼくは自分の部屋を眺め、ベッドの上で横たわっている自分を眺める。ぼくはほとんど頭ごと毛布に包まれている。ほんのちょっと顔が突き出ているだけだ。
 部屋の中はすべてが灰色のトーン。
 これは色ではなく、これはただの色相図だ。物は色を塗るために下塗りされている。しかし色が剥がされてしまった。このテーブルクロスは灰色だが、実際には水色だった。そしてこの鉛筆も灰色だが、実際には黄色なのだ。
「眠ったんだな」という声が聞こえる。



1931年 1025日 日曜日










 
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