ハルムスの奇跡

 

 ずっと前に、モスクワに住む私の友達が、私がハルムスに入れ込んでいると知り、ハルムスがテーマのテレビ番組をDVDに入れて、送ってくれました。なんでも彼女の知り合いが制作に参加したのだそうです。その映像資料の題名は、『ダニール・ハルムスの奇跡』と言います。
『ダニール・ハルムスの奇跡』は、一般教養のために製作されたもので、時間も40分と短いですし、その割には心象風景のイメージ映像みたいなシーンが長くて、説明はそれほど多くありませんが、印象深い、考える上で入り口となるような部分がいくつかありました。
 たとえば、冒頭部でのナレーションに、ハルムスの友人であったペトロフの、こういう言葉が引用されています。
 ここにハルムスの本質的な確信がある。奇跡を待つことは、人間の人生に内容と意味を強要する、と彼は考えていた。
 その後、一人のハルムス研究家でもある詩人が、この人は長い白いひげをぼうぼうに生やして、やせこけた仙人みたいな人ですが、こういいます。
 ハルムスの実に数少ない作品群は、完全に魔法のようなものです。それはただ単に、魔法のような印象を与えるということではなく、つまりまたハルムス自身が、非常に伝統的な宗教観を持った人間として、その全人生を通じて、奇跡を信じ続けたことによるものであると思うのです。そしておそらく、そのことは、彼の全人生を甚だしく制限したことでありましょう。
 これをあわせて要約すると、彼は、奇跡を信じて、待ち続け、それが人生に内容と意味を強いるのだという信念を持っていた。そしてそれは、伝統的な宗教観に裏づけされていた。ということになると思います。おそらくこれが、『ダニール・ハルムスの奇跡』という題名の由来でしょう。
  ハルムスという一人の詩人の創造を読み解く鍵の一つが、「奇跡」という概念であるということは、わりとよく言われることです。が、私自身はそれまで、それがどういうことかと考えてみたことはあまりありませんでした。なるほど、ハルムスの作品の中には、「神」「奇跡」「不死」といった言葉がよく登場しますが、私にはそれは、何か人知を超えた謎を代表・象徴するものとして使っているだけだという気が、いつでもしていたのです。私自身が、自分に判らないものを説明するときに、自分でも信じていない『神』という概念をよく使うせいかもわかりません。
 作品を見る限りでは、およそ罰当たりな人間に思えるハルムスが、伝統的な宗教観を持った人間であるとは、またどういうことなのでしょうか?
 また、ハルムスが全人生を通じて、奇跡を信じ続けたとは、何を根拠にした発言なのでしょうか?

 ハルムスが伝統的な意味で宗教的な人間で、生涯を通じて奇跡を信じ続けた人間であると考えてみると、ハルムスの毒々しい、意地悪で嘲笑的で、黒いユーモアに満ちた文学が、まったく違う光に照らされて見えてきます。
 
 ハルムスにとって、奇跡とはどういうものであったのでしょうか?

 この解説(?)のリンク先である『朝』という小文のなかには、こんな文章が出てきます。
 ぼくは神に何らかの奇跡を乞うた。
 そうそう、奇跡が要るのだ。どんな奇跡でもかまわない。
 ランプに火を点し、周囲を見まわしてみた。すべてがもとのままである。
 そう、ぼくの部屋の中では何ひとつ変わるはずもなかった。
 変わらねばならないのは、ぼくの中の何かだ。
 これは、奇跡というものに対する、ハルムスの一つの考え方を提示しています。
すなわち、奇跡というのは、部屋の中で物理的に起こるものではない。自分の内部で、精神的(?)に起こるものである。ということです。そして、ハルムスは、その内面的な奇跡が、どんなものでもあれ、ぜひとも必要なのだと訴え、しかもその変化をに乞うています。また、「奇跡」とは「変化」であるという、まあ言われてみればその通りだけれども、言われるまで考えなかった言い換え(私だけかもしれませんが)が出てきます。
ハルムスは、その生涯に(わかっている限りで)2度逮捕・投獄されました。一度目は1932年、裁判を経て、その年秋まで5ヶ月間をクルスクの収容所に送られます。2度目は1941年。この時は死刑判決をまぬがれるために精神病のふりをしますが、半年後に収容所内の精神病院で餓死してしまいます。
 この『朝』という短文が書かれたのは、ハルムスが最初に逮捕される1年前のことです。ハルムスは26歳でした。また、この年1931年は、「オベリウ(ОБЭРИУ)」という、ハルムスが中心人物として活動していたグループが、「階級の敵の詩」を創造するグループとして、その活動を禁じられた年でもあります。
 時代はまさに、スターリンの大粛清が始まらんとするところ。階級の敵と名付けられたのは、なにも詩人ハルムスだけではありません。検問と弾圧は、文化の隅々まで行渡っていました。
 当時台頭しつつあったアバンギャルド文化は、本質的に既存秩序の破壊から始まっており、反体制・反権威的な要素を多分に含む芸術形態でした。また抽象的である・不条理であるということは、「何を言っているかわからない」ということです。読み方次第で、どんな風にもとれるし、単純な見かけの裏に、どんな複雑なメッセージが込められているかわからない。もしかしたら自分たちには何でもない言葉の端が、何らかのおかしな意味を持ち、密かに民衆を啓蒙し、動揺させ、興奮させ、扇動させるものであったら。疑いに凝り固まり、のちに世紀を代表する独裁者に成長するスターリンに率いられた政府は、アバンギャルドという芸術の芽を徹底的に摘みました。同時にまた、唯物論をもって、神は存在しないと公式に決め、ロシア正教会の活動を大幅に制限し、もともとは非常に信心深い民であったロシア人たちを、無神論のソビエト国民に改造します。
 まだ若年のハルムスにとって、時代はすでに大変厳しいものになっていました。ハルムスが死ぬのは、このすぐ10年後、36歳のときです。たいして深く考えなくても、ハルムスが非常に奇跡を必要とした人間であり、必死で神頼みするのも無理はないことがわかります。
けれど、ここで面白いことは、ハルムスが物理的な奇跡を、すでにもうこの時点で求めていないということです。26歳のハルムスは、「奇跡は部屋の中では起こらない。奇跡は自分の中で起こらなくてはならない」という定見をすでに持っているのです。
その定見は、やがて小説『老婆』に至って、面白い変化を遂げます。

 

小説『老婆』は短いながらも、ハルムスの人生観や謎を解釈する上で、幾つものヒントに満ちています。黒いユーモアに彩られた不条理な世界、執拗に繰り返す同じ描写と、その裏で進行する変化、神についての問い、奇跡への希求、などなど、尽きせぬ魅力のある一品です。
その『老婆』のなかに、主人公の書こうとしている小説のプロットが出てきます。

 

 これは同時代を生きる、奇跡を起こさない仙人(чудотворецについての物語になるだろう。彼は自分が仙人だと自覚しているし、どんな奇跡でも起こすことが出来るのだが、それをしないのである。アパートから追い出されるときも、ただ指をふりさえすればよく、そうすれば部屋は自分のもとに残ることを知っていながら、彼はそうしない。おとなしくアパートから出てゆき、町外れのオンボロ小屋で暮らすのだ。この古いあばら屋を素晴らしい煉瓦造りの家に変えることだってできるが、やはりやらない。掘っ立て小屋に住み続け、結局彼は死んでゆく。自分の人生のために、ただ一つの奇跡も起こさぬまま。 
ここで新しいのは、「奇跡」は起こせるけれど、意思的に起こさないのだ、という考え方だと思います。貧しく、虐げられながら残酷な人生を生きている一人の男が、実は奇跡を起こすことの出来る仙人であり、しかもそれを自覚していながら、意図的に奇跡を起こさない。なぜ起こさないのかは説明されないまま、彼は仙人でない大多数の凡人と同じく、自分の人生にただ一つの良い変化ももたらさぬまま、死んでゆきます。
奇跡を起こせると信じつつ、更に拒否するという、奇妙に捩じれた考え方は、同年に書かれた『鶴と船』にもうかがえます。
この詩は、空を飛んでいる鶴が、海岸に立っている人に向かって、「こちらまでおいでよ、背中に乗っけて、面白いところに連れ去ってあげるから」と誘うのに、誘われた方は「いきたくないよ」と断る、という詩です。鶴が奇跡を提示し、それをハルムスが断るという構図。起こるはずだった奇跡を意図的に起こさないという点で、『老婆』の劇中小説と同様です。
『老婆』と『鶴と船』はともに、1939年、ハルムス34歳のときの作品です。奇跡を待ち望み、「奇跡が起きるとしたら物理的なものではなく内面的なものだろう」と思い直す26歳の頃から、8年を経過し、一度の逮捕と収容所暮らしの経験を経て、ハルムスがたどり着いた境地なのでしょう。
この『鶴と船』の奇跡=「鶴の背に乗って海を渡ること」は、「亡命」を連想させます。
 実際、ソビエト連邦時代には数多くの芸術家やインテリ・もと貴族が、自由な活動を求めて海外に亡命しました。ブルガーコフやソルジェニーツィンなど、出版を許されなかった文学者の多くは、海外で著作を出版しています。また、その頃海外で高い評価を受けて活躍していた、不条理演劇のベケットやイヨネスコ、シュールレアリスムのダリなどは、みなハルムスと同年代です。もしハルムスが生きて、海外に逃れていれば、「子供の詩を書く作家」として限定的な仕事をし、本当の仕事は一切発表できないといった不毛な人生は送らなくてすんだのかもしれません。現に死後のハルムスは、ロシア国内や欧米において、熱狂的なファンを獲得しているのです。もしそれが生きているハルムスに起こったとしたら、それは「奇跡」と名付けてもおかしくない変化だったでしょう。
しかし生前のハルムスは、亡命という「奇跡」を拒否します。「ぼくはソビエト(光)の側に残るよ!」と高らかに宣言するのです。その自分の祖国、ソビエトというのは、ぺらぺらの紙でできたような、奇妙な国だということを身をもって知りつつ(「このページ」)。
 そしてハルムスは、1942年、36歳で死ぬのです。『老婆』を書いた、わずか2年後のことです。起こせるはずの奇跡を、自分の人生のために、何一つ起こさぬまま、餓死という壮絶な最期を遂げるのです。
しかし、何故でしょうか?おこせるはずの奇跡を、あえて起こさない訳は、なんなのでしょうか?ひどいことになると知っていて、避けられると知っていて、あえて何も変えないことを選択するというのは、どういうことなのでしょうか?
この疑問が、おそらく、ハルムスがごく伝統的な宗教的観念を抱いた人間であったという、あのひげ老人の詩人の定義に繋がるのかもしれないと思います。
 知っている限りで、避けられるはずの悲劇を避けるための奇跡を、起こせると知っていながら起こさなかった人間の代表例は、イエス・キリストだからです。
最後の晩餐のイエスは、すでに自分が裏切られ、酷い死を遂げるだろうということを知っています。知っていて尚且つ、彼は奇跡を起こさず、翌日処刑されるために、人類の罪と苦悩を背負ってゴルゴダの丘を登ります。そう考えてみると、『老婆』の中に出てくる仙人は、キリスト的な意思のバリエーションのひとつのような気がします。そしてまた、あえて亡命をせず(単に出来なかったのかもしれませんが、それは置いておくとして)、精神病院の中で餓死することとなったハルムスの死に様も、またキリスト的な意思のバリエーションといえるでしょう。
  ところで、これまであげてきた作品の中で、一貫して否定されているのは、物理的な奇跡、つまり「部屋の中で起こる奇跡」でした。また、キリストが起こさなかった奇跡も、言ってみれば「部屋の中で起こる奇跡」です。『朝』においては起こるはずのない奇跡、『老婆』においては起こせるけれど起こさない奇跡。それでは、起こらねばならないはずの奇跡、「自分の中で起こる奇跡」についてはどうでしょうか。そもそも、自分の中で起こるはずの奇跡とは、一体どんなものでしょうか?
 『老婆』の主人公は、自分の心に触れる身近な人に、「あなたは神を信じますか?」と必ず聞きます。その質問は相手を当惑させ、怒らせますが、やはり彼は聞かずにいられないのです。主人公は問答の果てに、「信じる、信じないというのは何をですか?神をですか?」と反問され、「いいえ。不死です。」と言い換えています。
 彼が信じている、「自分の中で起こるはずの奇跡」とは、不死ではないか、と仮定してみるのは面白いことです。
 最も、自分が果たしてそんな事を考えるほど宗教的な知識を持っているのかは大いに疑問ですが。大学生のときに、ロシア正教で独特の考え方の一つに、『不死』があるという講義を受けたことがあるのですが、その詳細はとっくに頭の中にありませんし、また、それが具体的にはどういうことなのか、何度説明されてもぴんときません。そこで、とりあえず「不死」の内容については、ぐっと自己流で解釈することにしようと思います。(それ以前に、この解説(?)のすべてが自己流・無手勝流・独断ですので、それを前提として読み進めていただければ幸いです。)
 「不死」というのは文字で見る限り、「死なない」ということですが、キリストはゴルゴダの丘で一度死んでいますから、「不死」と「不死身」は違うのでしょう。「不死身」が物理的な奇跡であるとすれば、「不死」は内面的な奇跡です。キリストは物理的な奇跡を拒否し、自分の生命を犠牲にして人類の罪を贖い、その結果「不死」という奇跡を起こして人類を救ったのだ、と考えてみます。不死は魂の不死、人類の胸の中で生き続けるキリストの意思の不死です。
 『』において、ハルムスが定義していた「自分の中で起こるはずの奇跡」は、8年後の『老婆』に至って、「死して後(他の)人間の中で起こるはずの奇跡」に変わりつつあったのではないでしょうか。キリストがもし物理的な奇跡を起こし、処刑を避けたとしたら、彼は人類の胸の中に復活して不死を得る奇跡は遂げられなかったでしょう。ハルムスも同様に、物理的な奇跡を拒否することで、死んで後の奇跡を信じたのではなかったでしょうか? 
 キリストが自分の命を奉じたものは、人類愛でした。ハルムスは何に自分の人生を差し出したのでしょう?
 私は、祖国愛、ロシアにたいする愛であったと思います。人間嫌いで奇人変人のハルムスと、愛国心などというものの組み合わせは、自分で言って、自分で笑ってしまうほど奇妙なものですが、しかしハルムスはやはり、深く自国を愛していのだと思うのです。奇跡を待ち望む姿勢は、そのままソビエト国民の内面に起こる奇跡を待ち望む姿勢であったと思います。彼が信じていた奇跡は、ソビエトを救う奇跡ではなかったでしょうか。
 『苺とチョコレート』というキューバの映画の中には、共産主義のキューバで容易には暮らしてゆけないゲイの男性が、「でも僕がいなくなれば、この国は何かを失うんだ!」と絶叫するシーンがあります。ハルムスの奇跡について考えるとき、脳裏に浮かぶのは、この男性の考え方です。この男性は劇中で亡命し、ハルムスは亡命せずに死にましたが、ハルムスのいなくなったソビエトが、のちに崩壊に至ったのは、おそらくきっと、何かをとっくに失っていたからに相違ありません。


『鶴と船』の、「ぼくは光の側に残る」という宣言は、ソビエトが彼に何をしたのかを考えるとき、切実に胸に迫ります。また、国家とは何か、国を愛するとはどういうことか、人間の人生とは、運命とは、といった、様々な問いが、「奇跡を待つ」というハルムスの意思に込められているのだと思います。

 









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